ポルノ撲滅思想の裏にあるもの

やっと気がついた。

規制派のロジック。
あいつらポルノの存在そのものが許せんのか
二次三次問わず

http://blog.canpan.info/nakanohiromi/archive/234

いや、俺も全く同意で、
というよりは価値観どこかで歪むのよ。

あー、ようやく腑に落ちたわ。

いやね、セックスの在り方を「AV」参考に学ぶってやっぱり「歪ん」でると思うんよ。
そして、「それしか知識の間口にない」奴は「真面目な奴ほど」それを無批判に取り入れてしまってAV同然のことを強要する。

この「性的暴力」の問題は普段真面目なクリスチャンですら秘めている。
いや、現実の問題として、
俺は何人も性の問題について深刻に悩むクリスチャンの同世代の人間見てきたし。
俺も其の一人に過ぎず、それを悔い改める毎日だ。


そして規制派の一部が見てきたのはそんなある種歪んだ「性」観念の持ち主から受けてきた仕打ちへの糾弾、と。

これについては一つ提案を、
「結婚前に、結婚そのものについて学んでみてはどうだ?」
式を挙げる教会の牧師でも、自分の両親でも相談相手は誰でもいい。
特に「性」を廻る価値観は男性と女性で大きく違う。
結婚前にその学びが足りないとか、

そもそも、
「好きだから結婚する」
という価値観が間違ってるのかもしれないという議論にはならない。

「愛」は意思だ。
感情ではない。

感情が無意味なものか?
否、感情は神様から与えられたものだから正しく用いる必要が人間にはある。
「好きじゃない」人を「伴侶として取り分けて」愛することはできないだろう。

ただ結婚の誓約について考えてみたい。
「健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、神と人との前でその伴侶となる相手を愛することを誓いますか?」
(超適当に書いてるから大分穴だらけ)

ここで「愛」は「誓う」ものという前提がある。
誓い……すなわち約束であって愛することをやめるとは約束の破棄だ。
愛は愛「する」ものだ。

もっと根底の部分を、深い部分を見つめずに、
一足飛びに「規制」という結論に至る短絡性が非常に怖い。

理念とか思想の部分には共感するし、その市民運動はすばらしいものだ。
だが「法整備」という手段をとる場合はもっと広い視野で考察する必要性が必ずある。

正月からなにやってんだろうね。

とりあえず、東京都青少年健全育成条例改正案が悪法である理由をあらためて列挙

1:条文が曖昧 
これが一番現実的に議論必要な部分
2:言論の自由問題 
これはそれに次いで現場の人間と行政の人間がそして一般人がもっと深刻になって考えるべき問題

この二つに関する吟味が足りない全く足りていない。
そもそも、
3週間というスピード可決じゃ吟味とか無理だよ
条例の運用者=条例の条文作成者
だと、恣意的に運用されると普通誰もが思うよ。
少なくとも現場では誰もが思うよ。
だって、クソ真面目な審査会が審査すれば、
ムダなまでにご丁寧に運用する、
のが目に見えてるよ。

そして、それが本質的に「検閲」ってことに気がつかない
ここまで分かってるから反抗するに決まってるじゃん。

良いお年を

12月31日
今月始めたばかりのブログだけど年越しですね。

もうそろそろ母親が年越しそば茹でそうなのでリビングに移動しようかなと考えながら書いてます。

青少年健全育成条例について、真面目に調べてみて色々考え方は変わった。

其の上で思うのは、
権力には「原則」として従うべきだけど、
権力の暴走には毅然と立ち向かう必要があることを改めて自覚した。
どちらも聖書にあること。(後者は特にダニエル書と黙示録ね)

今は、権力が暴走しているタイミングだから一人のキリスト者として立ち上がる必要がある。

その上で性倫理については私の見解を聖書に基づいて述べさせてもらう。

人は、本質的に男と女一対一に作られたものであり、

一夫一妻の原則
婚前交渉の否定
高い性倫理の必要性

これらは必要不可欠だ。

夫婦という絆の元で許された関係が性交渉であり、何人たりともそれを侵すことは許されない。

ただ、性知識。
これについて、独身の間に必ず学ぶ必要があるのは確かだ。

そして、女性を性欲の捌け口、人格的交わりの否定をすることに破綻が始まることを覚えなくてはならない。

なぜ「婚前交渉が否定されるのか」改めて考え直すいいきっかけになった。

その上で、一つ断言します、

キリスト者は世の価値観をどう避けるか、ということを学ぶ必要がある」
「自分たちの考えがスタンダードになるように伝道を続ける必要がある」
「様式を妄信するのではなく、何故そう神様が命じているのかを聖書に訊く必要がある」


「昔、とある牧師がエロ本読むのがすきで子供にも読ますべきです」
と言ったことがあるというのを説教中に聞いたことがある。

一番の疑問はその牧師が聖書に基づき、
人格をどれだけ大切に考えたかです。

高い倫理性は結局のところ聖書に基づいて考えるべきで、
「政治ごとき」に任せてられないものなのだと思います。

「政治」が守るのは「誰もが認める」「不正」の取り締まりです。

福岡淫行条例の最高裁判決から考えてみる

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/62-3.html

淫行条例に関する最高裁での前例

「淫行」とは、広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきでなく、青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似行為をいうものと解するのが相当である。

これが前例みたいだね。

この判例は二次元のものにどうこうするっていう「発想」すらないんだけど
犯罪で問われるのは「判断力の乏しい青少年」
特に13歳以下には無条件で、それ以外の18歳以下には判断力を恣意的に奪う行動が影響する。

また、伊藤判事の見解より、

四 問題となるのは、前叙のように「青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により」という限定を加えることは、単に「淫行」とのみ規定する本条例10条1項の解釈として可能であるか、ということである。

これを今回の内容に当てはめると、

問題となるのは「不当に賛美し、誇張し」の解釈として適用範囲が適当であるか

という問題になってくる。

疑わしきは罰せずの社会であっても、法でどこまで規制されるかわからないなら当然萎縮するんだよ。
社会的弾圧を受け続けて、漫画界とか言論界に生き残ることができなくなっても活動続ける奴とか普通はいないんだよ。
あれか、エロい漫画を書きたきゃシンドラーにでもなれってことか?
普通作家にゃ「自分の生み出したキャラクターに命を懸けさせる」ことはできても、
作家自身の命を懸けさせることはできねーよ

ただでさえ若木民喜先生が通帳の残高一万切ったみたいな、ことをブログで上げてた過去とかも鑑みて、
生活苦の作家が居るのに、これ以上作家をいじめるなよ。

私のような読者にとっては作家は「良いものを描けばお金を払うし」
「つまらんものを提供するなら金は出さない」ものだ

これが読者と作家の、消費者と提供者の平等というものだろう。

表現規制コントラスト

今回の表現規制問題に孕むいくつかの問題をピックアップしてみる。

優先度最高位
思想的な二律背反、「根底の思想的」な部分。
1.表現の自由
2.子供を守ること

優先度中位
手続き上、法解釈問題で「現実として対処すべき」問題
3.採決に至った過程
4.法の条文の問題性
5.現場とのコンセンサス

優先度低位
正直、揚げ足取りの領域
6.関係者の言動


超おおざっぱに分けるとこのように3つに分けることができるのではないか?
高位の問題は「大義名分」としてしか機能しない。
言い換えれば思考停止へと導く道具にはなりますが、
ここばかり注目していても平行線で議論に決着が着きまない。
繰り返すけど注目することそのものは大事。
表現の自由とはなんぞやと追求するのも大事だし、それが弾圧されていた歴史や弾圧されているほかの国家のことを考え、
また台湾の歴史などを教訓を生かすことの必要性を考える必要がある。
子供を守ると一概に言うが「毒をなくしてしまう」ことが本当に子供の教育になるのか、
「毒の存在」を教えながら「取らない」ことを選べる判断力を与えることが教育ではないのか?
教育する手段を一つ自ら放棄してるのではないか

批評をしようとすればいくらでも出来るけど今回のメインは中位の部分なのでここらへんで。

現実問題の部分はどうあるべきか。
3についてなんだけど、
11月末に提出12月可決は無茶すぎる。
民主党が反対していた内容を行政がこの条例の必要性について説いて回った結果政局への心配で民主党が意見を変えた。
行政監査請求する必要性もあるかってか、誰か動いてるのかな。

法の条文の問題性についての答弁は「かわす」発言しかしてないね、都もとい担当の倉田氏
ストーリーというか作品の「設定」にまで法令が注文つけてくるってちゃんちゃらおかしいだろ。
ニーズのある層にニーズのあるもんしか普通作家は書かないよ。
んで、近親愛とか同性愛とか「作品的に避けて通れないテーマ」の時か「お約束的なギャグ」という「手法」以外では原則描かないのが当たり前。
それを「法」という手法で禁止というのだから、「書けなく」なってしまうものだ。

今まで「お約束」や「ジャンル」、そして「主題」として認められていたある種の限定的空間が「違法」あるいは「違法可能性」という名で書けなくなってしまう。
編集作業とは「一つの下らないギャグ」を採用していいか否かまで細かくチェックするものだ。
採用していけないものの「定義」が曖昧ならば、編集者の仕事は「曖昧な定義を無視するか、曖昧な定義の最大範囲を適応する」の二択しかない。
そして、商売を行う者としては「違法」認定を受けるリスクは原則として避けるべきと考えるとおのずから条文の不十分さ曖昧さ指摘することができる。


5について、ゾーニングするだけという批判は、
一般書店に18禁コーナーの設置の義務化を先にしてくれという反論を述べさせてもらう。
いっそのこと「一定規模以上の書店には18禁コーナーを設置する」条例でも作ればよいのではないか?
これならアウトサイダーな企業の漫画でも十分入荷してもらえるし、
一般的な18禁の写真集もゾーニングして堂々と売れる。
官能小説も分けることができる

ただ、これは現実問題「より大きな」反発があるだろ。
規制をする人間が漫画と小説は表現手段が違うだけで芸術的な価値は等価ということを意識する必要がある。
生徒会の一存の中には「メディアの違いを理解せよ」というセリフが存在する。
小説と漫画は本質的にメディアが違うだけにすぎない。

私は絵が描けないが物語を生み出したいという欲求の元で大学で文芸系のサークルに飛び込んだ。
それゆえに、絵が描ける人には多大なリスペクトがある。
漫画で表現できるなら漫画でもかまわないし、ビジュアルノベルでもかまわない。
最近は、youtubeニコニコ動画の隆盛のもとでビジュアルノベルのような「紙芝居」も流行っているが、本質的には
「メディア」の違いに過ぎず価値としては等価だ。
(前提となる設定を一から生み出す創作とかなりの部分出来合いの部分を使いまわす二次創作は別のものだが)

ところが規制を積極的に行おうとする存在は漫画ひいては漫画家に対するリスペクトがない。
むしろ社会のゴミとすら思っている。

彼らを潰すなら彼らを潰した結果「彼らという名」の「失業者」を対策までする必要がある。
それができないならもっと穏当に方法を考えろ。

6について。
これは私は不要とは考えていない。
都知事や副知事が失言をするたびに理論武装するためのカードが一つ増え、
そのカードを入り口に他の人にこの問題について考えさせる手段を生むからだ
問題を考えるのは間口は広くていい
低次元のものから高次元のものへ議論を展開していくのは何も不自然なことではない。
ただ「そこにのみ固執」することの無意味さは警鐘をならしておく。
あくまでも入り口は入り口に過ぎず、
高次の問題や「現実問題」へと目を向けさせる手段であり、
彼らをなじることを目的とするのは本末転倒だ。

KGK引継ぎ合宿と新現実WEB版から考える

KGK引継ぎ合宿で来期の奉仕についての引継ぎ

かなり今大変な状況
ってか、来期本気で俺この先生きのこれるのか?


主に日程的な意味で。


あといつもの言論活動ネタ
http://actibook.la.coocan.jp/webgenjitu/


11Pは注目に値する。
特にキリスト者として意識すべきなのは、
「弾圧」は「庇護」との両輪であること

戦時中の無残さは、そこを忘れたところにスタートしている。
常に意識しなくてはならない。

論文は語る

http://slis.sakura.ne.jp/jslis58_2010kikawada.pdf

筑波大の「有害図書」リスト論文

結論:都道府県によって資料が散逸してるところもあってデータベースとしての価値は低い


凄く残念な感じだったな。
恣意的かどうかを確かめるパラメータの一つになるっていう観点はすばらしい

この研究は是非続けてもらいたいところだ