クリスマスですね。

今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。

このブログを開始したきっかけは「東京都青少年健全育成条例」の改正案に反対のためなんだけど、
やっぱり考えれば考えるほど、
理念が正しくても手段が正しくないって結論にしか至らない。

まともに情操教育を受けてる子供はそもそもエロ本は読まないよ
クレヨンしんちゃんを見ればわかるけど、
しんちゃんのきれいなお姉さんを見た後はたいていの場合みさえの拳骨が飛ぶ。

あれで「大体悪いことななにか」と子供でも判断ができる作りになっている。
けど、怒られるあるいは罰を受けることで何が正等で何が間違ってるかを子供は学べる。

今回は子供が学ぶべきケース、および大人がしつけるケースの機会損失なんだよねえ。

ってか、本音は
大人ですら読むべきでないし、読まないことを選ぶ社会が理想化された社会だと思ってる。

よいしょ、
それはそうとして
http://togetter.com/li/82522
これはやっぱり違うなぁと。
我々の勘違いであると言い切りたいんだろうけど、
問題の認識の違いということが理解できないんだろうな。

広がる波紋

http://www.jpwa.org/main/images/pdf/appeal101217.pdf

お隣かもしれない劇作家業界からも批判の声

現場の仕事は「トラブルさけるために自主規制」であって、
そもそも「全ての読者を満足させることはできない」けど「出来る限り多くの読者を満足させるため」に自主規制するもんだしなぁ。

曖昧であるがゆえに、「慎重な運用」を盛り込んだ付帯決議
は、かえって当局に伸縮自在の「解釈の裁量」を与え、恣意的な判断を許すことになります。

行政は完璧でないことは明らかで、
この手のことはその「完璧さ」を求められるべきことなんだから、
民間に任せればいいのに
あんまりにも苦情が多ければその苦情を業界へ送り、
業界と一緒に行政に送れば勧告ぐらいできるでしょ
なぜ、「法」で縛る必要がある。

出版者・販売者は、トラブルや規制による販売制限を怖れ、また、「不健全図書」に指定さ
れることを避け、過度の自主規制が考えられます。それらは、創作の現場全体への制約に
繋がります。

自主出版とかじゃねーと、もはや描けなくなるし
「食ってける人間が食えなくなる」って考えると言論の自由を奪うことにほかならない

公共の福祉に反しない限りという「自由に対する制約」があるけど
果たして出版業界は「公共の福祉」に反していたのか。

グレーゾーンこそ現行条例でビシバシと白黒つけて、
それでも現行条例が、現行の運用が不完全ならばしっかりと業界や消費者と議論できる場を作るべきなのは明白。

映画監督協会も名を連ねたってことに注目をしておきたい。
映倫は十分仕事してるから規制対象外扱いだったが、
その映倫がレート分けしている映画業界ですら、今回の条例は問題アリとしいている。

量子家族〜クォンタム・ファミリーズ感想

う、うーん。
ストーリーは面白かった。
けれども文章としては、論文的過ぎて「小説の文章」としてはあんまりいい文じゃないと思った。
っていうか、一人称視点がみんな理屈っぽすぎて感情にまかせた人が居ない分、
登場人物の個性が足りないかなぁという感想。


以下ネタバレを多く含みます。


一回読んだだけじゃ、作者の主張はまるで見えてこない。
というか、往人が事実上最後まで量子化された現実へ巻き込まれた被害者的ポジションで、
主体的に動いていたのは二人の子供だしなぁ。

元となった「ファントム・クォンタム」は読んでないけど
『物語外』として冒頭と巻末に入った二つの章はおそらく加筆修正の時に大幅に書き直したもの、あるいはそもそもなかったときに書き足したものと推測される。

この「量子家族」は皆が皆、愛に飢えている。
愛されることに飢え、愛することにも飢え
量子的並行世界を覗き見る手段を得てしまった存在は「本当に愛せたはず」の禁忌の世界へ手を伸ばしてしまう。

この物語の主張は「自分の元にいた世界でどうしろ」という主題ではない。
そのような主題であれば、絶対に出会うはずのない姉と弟を出したりしない。
生まれてくるはずだった末の妹を出したりもしない。

存在論的・郵便的」への自己回答を内包したこの小説は、
平行世界への干渉を逆説的に否定する形で終わる。

最終章『i』では、往人が友梨花を愛するために過去の清算を行おうとするが行えない、それでもそれまで見せてきた絶望的な溝のある往人と友梨花より距離がまた縮まっている描写になっている。
そして、娘の名前が「汐子」であることに注目したい。
章題が『i』であり、風子が生まれなかった世界だ。
風子も生まれていない、理樹も生まれていない世界。
それでもぎくしゃくしながら主人公は目の前の友梨花を求め、
娘の前で父たらんとする。
「帰れないかもしれない」と現実を告げると、『虚構』の存在たる娘は、
「汐ちゃんがつれて帰るんだから」と言う幕切れ。

作中の登場人物たちにとっての『現実』とはもはや認識されない世界での収束点は美しくもまた儚い。

きっと、この作品の救いは理樹が往人を「父さん」と呼ぶシーンだ。
理樹にとってあの往人は母をレイプしたあの父であり、
この平行世界への干渉を理樹が始めたきっかけとなった存在だ。
その男が赦されることが内包される。

しかし、やり直しの効かない世界を夢見ながら最期を迎えるのは強烈な皮肉とも言える。

新作プロット1:アイディアまとめ

今回の騒動を眺めるのとクォンタム・ファミリーズやクロノセクスコンプレックス、アスラクラインとかを読みながら、
新作へのアイディアが沸いてきました。

抑圧されているときの方が創作意欲が沸きます。

今回の件について、私は絶対に条例について批判的にしか書けません。
「子供のため」という理念は素晴らしくても、
親が教育することを放棄することおよび言論の自由を奪う「手始め」としてしか機能しないからです。
あと、結局利が出るのが官僚の天下りポストが増えるだけってのも大きいですね。
知事のやり方を見ながら、自分のバックボーンだった「出版業界」からの反発っていうのは予想外だったのには間違いありません。

ただ、なるべく双方の視点で書きたいです。
僕は鎌池先生とは違うので、相手をなんとしてでも説得するような話は書けませんし、書きません。
ただ、喜劇にならず悲劇になる未来しか見えないんですよねえ。

テーマ
狂った正義
一つの信念の多面的解釈とその影響
無批判無討論の問題性

主要登場人物
独裁的な執政官
社会一般の無関心無批判な主婦
批判的立場に立つ業界の人間
批判的立場に立つ消費者

とりあえず今あるのはネタだけなので、
SFにするか、現代物にするか、ファンタジーにするかは未定。

とりあえず、オチとしては皆不幸にします。
これだけは確定です。
何があってもこれだけは曲げません。

そして、必ず書き上げます。

この条例が悪法である理由

まぁ、私。

繰り返すけど「政治については完全に素人です」
経済についても全く分からない人間です。

それでもこの条例が通ることによる明らかなデメリットを並べてみた。

1:条例によって表現によって流通が止まることにより確実に失業者が出ること。
2:この条例を運用するにあたって専門の運営委員を作らざるをえない。ここに余計なコストがかかる。むろんこのコストは税金
3:大人に子供を躾ける機会、教育の義務を果たさせることの放棄をさせる。
4:子供にも選択の余地を奪う

失業者が出て、税金の無駄遣い枠が増えて、教育のためにもならない
と考えると誰も得しない無益どころか害があるとしか言えない条例です。

あと、これ。
流通にどれだけ規制してもゴミの日に外に出されてるエロ本にはなんの効果もないのも問題で、
運用に事実上の限界もある。

聖書から学ぶ、今回の問題

私はクリスチャンです。
オタクでクリスチャンなのではありません。
クリスチャンであり、オタクなのです。
この立場、クリスチャンであることが何よりも上位に来ます。
大学生であることよりも、日本人であることよりも、生物として男であることよりも、
私がクリスチャンであることは上位です。
キリスト者であることは私の中核であり、
私の資質と希望として大学で情報工学を学び、
サブカルチャーに慣れ親しんだオタクであります。
ですので、考え方のベースは常に聖書の立場に立っています。

今回のことを思い巡らせていくうちに、
聖書の中の毒麦のたとえ話に似てるかなと思いました。(マタイの福音書13章)
一応聖書を読んだことのない人にかいつまんで解説すると(コレを気に聖書に触れてくれるとうれしいです)

ある農場主の畑に麦が撒いていたけど、農場主の敵が来て毒麦を撒いていった
芽が少し育って毒麦があることに気がついたけどどうするべきか、毒麦を抜いてしまおうかと聞くと、「麦も抜いてしまうかもしれないから待つ収穫のとき(収穫期には麦と毒麦の区別がつきやすい)に先に毒麦を収穫してしまい束にして燃やす」からそのまま育てろ
っていうたとえ話です。
講釈については、主イエス自身がその後同章37節から解き明かしてるので、ここでは省略します。

それで、似てると言ったのはアニメ漫画の名作か否かの二元論について。
玉石混交のところで悪いものの芽だけ抜こうとすると、
いいものも抜いてしまうリスクがあることをわすれてはいけません。

傑作の判断は評価をゆだねられている層がするべきであり、
役所の仕事ではありません。
最初からあきらかに「毒麦」とあからさまに分かるなら刈り取って燃やせばいいかもしれないですが、「まだ分からないものを毒麦かもしれないから刈り取る」っていうのは前述のようなリスクが発生します。

漫画とかラノベとかゲームの評価で東浩紀が面白いと言ったから
面白いに違いないっていう消費者はまずいません。
「このライトノベルがすごい」で1位になったからといって、
本当に面白いかどうかは読者の感性にゆだねられます。

書き手側としての声もバクマンで漫画家は、
「何が面白いか何が面白くないか漫画家は常に模索しながら描いてる」
「天才は自分の感性のまま描けば当たるけど、天才ではなければ「努力・うぬぼれ・運」の全てを駆使しないと」
と漫画家自身の声で言っています。


デスノートは今でも語り草かもしれないけど、
ヒカルの碁はもはや碁やゲーム業界を語るときにしか思い起こされない作品となりつつあります。
ですが、ヒカルの碁が駄作だったと評価する人は稀で、囲碁の文化にとって貴重な作品となっています。

この大消費時代
結局何十年も名作と判断され続けるのって「売れた作品」です。

そして、後世へ影響を残した作品です。
ジャンプから主人公が人を殺す作品がなくなったと嘆く漫画ファンは非常に多いです。
というか、「ジャンプは不殺だからつまらない」と断言する意見は割と見たことはあります。
あれは私の知る限り「るろうに剣心」ですかね。
アレ以降、主人公が他の登場人物を殺す作品をデスノート以外で見た記憶がありません。
ハンター×ハンターでゴンさんがネフィルピトー殺したぐらいですか。

デスノートは社会浄化のための殺人を取り扱った作品ですが、
デスノートの力によって、確かに社会は浄化されていき、人々は規律を持って行動はしていく。
しかし、当人の夜神月自身の人格はどんどん傲慢で極端な自己愛に歪んでいき、
最終的に失敗に陥るときにある意味中立の地点で事件を眺めていた死神のリュークに愛想を尽かされて殺されてしまうという筋。
やっぱり、「全体の思想をどうこうしよう」という規律浄化思想は結局のところ「人間にとって分不相応」という主張をする作品ですね。

デスノート見て誰が人を殺したんだろう。
いや、「ごっこ遊び」ならやりましたよ。
中学生のころハンターハンターのGI編ラストぐらいで、ボマーごっこは友達とやりましたよ。

でも、普通は「ごっこ」で終わるもんですよこれは。
実際にそれやってた同級生は今、警察官ですが。

あくまでもごっこで本当には人殺すわけがない。
だって、子供でも「人を殺すことはだめなこと」は分かっています。

そういえば「なぜ不殺を貫くのか」をテーマにしてる作品は最近は珍しい。
というか、るろ剣でかなりやってしまったので、扱いづらい題材ではある。

禁忌を誇張し、作品全体の流れでそれを悪とする作品こそある意味最も倫理的な作品なのかもしれません。
鋼の錬金術師で、人間による人間の作成については明確に否としたように。

簡易的、読者層論について

多分一般誌で男性向けに売られてる中で一番アレな雑誌は(ここで言う一般誌の定義は全年齢のレーティングの意)
まちがいなくチャンピオンREDだと思うのですが、
あそこの作品はむしろ
なぜ有害指定図書受けなかったんだってのも多かったり。
あれ、僕が天才と思ってる松山せいじ先生の作品がその対象になったんだっけ?
http://den.blog.ocn.ne.jp/densuke/
と、思って松山先生のブログを見るとエイケン10周年だそうです。
うむエイケンは「性交類似行為」すらなかったな。
伝助がとりあえず妄想で脱がすのと、不条理に脱げるのと、不条理に脱ぐのばっかで、
脱がし方の不条理さは一種の芸術の領域でした。
其の反面、たとえヒロインの千春と伝助が同じベッドで寝る結果になったとしても、
「セックス」には突入しないのが奇妙であり律儀な「自主規制」なんだと思います。
あの、奇妙で過剰なまでに脱がすタイプの作品はある意味「少年漫画」の象徴でもあるんだよなぁ脱がすことが目的であって、そのほかは全て手段であって、
「セックスという領域だけは絶対に侵さない」
少年が「性」に芽生えることを否定しないけれど、無闇やたらに性交という線は越えないという意味では、ある意味で少年漫画にかなり共通したテーゼになっているのかもしれません。


それで、松山先生についてちょいと情報量を増やして検索書けると次の情報が出てきました。
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_manga__20101217_11/story/20101217jcast2010283860/
http://den.blog.ocn.ne.jp/densuke/2010/03/post_3730.html
「奥サマは小学生」か規制対象云々は

ってか、TVでやり玉に上がったときに批判が多かったから、
モザイクかけて報道するしかなくなったってのもあるんだろうなぁと残念に思ってます。
このときも物議かもし出す発言してるのは副知事なのか
ってか、あの副知事。知事の子分とだけあって基本的に同じような考えの持ち主なんでしょうねえという気持で一杯になりました。


個人的にぶっ☆かけはR18で出したほうがいいと思います。
ってか途中でエロがキツかったので本を閉じてしまいました。
ただ、これ「私にキツくても、他の人にはキツくない」っていうか「性交類似行為」すら見られないから規制かけられないんじゃないかなぁ。

チャンピオンREDは「少年向け」って表向きってわけでもなさそう
っていうか

18禁について考える上で、大事なのはレーティング以前に購買層の話

漫画だけじゃなくて、あらゆる「創作物」。
小説や映画、演劇に、音楽
どれも「ターゲット層」というものは必ず存在します。

というか、創作物じゃないメディアでも「視聴ターゲット層」というものは必ず存在します。

情報はそこへ向けて発信するもので、イレギュラーが見るのは「配慮」程度になるのは当然なんだよな

でだ、チャンピオンREDって異常なまでにニッチなんだよなぁ
美少女とバトルがすきなのオタクのための雑誌であって
ジャンプ漫画と比べたら1/5以下(そもそもメインの週間少年チャンピオンの交渉発行部数50万部が週間少年ジャンプの1/5よりも少ない)の世界。
単行本の発行部数なんて更に少ないんだろうなあ。

これで、生き残りをかけてやれることすべてやろうとするのは作者の権利であり義務か。

んで、
生活懸かってる作品」を流通規制かけられちゃ、
生活保障のお世話になる人出るぞ

漫画家で金持ちなのは大ヒット飛ばした作家ぐらいです。
赤松先生の日記を一通り読めばよく分かります。
http://ailove.net/
AI止ま時代は連載終了の単行本印税で新しいPCが買えるぞやったー
みたいな日記を書かれています。

いやさぁ。
連載終了したら次の連載までプーだし、それまで食わなきゃいけないから相応の貯金はあったんでしょうが。

赤字覚悟の事業に乗り出すのは、
事実それだけ現場下層を経験してる上でもっと下層(この場合の下というのは収入の意味)も見てきてるでしょうし、その人に食わせたいという強い希望があるからに違いないでしょう。

赤松先生自身は「ネギまが規制対象になるならその穴を抜けるだけ」と言ってるけど、
それを楽しんでやれる作家ってやっぱり稀だと思う。
プロになった以上自分の作品を「魂を込めた芸術」と思ってる作家がほとんどで、
あそこまで「売れる」作品を描こう、そのことで「読者を喜ばそう」
と割り切ってましたけど、売れっ子でない作家はそうはいきません。

いかに限界に挑戦したギリギリの描写に魂を賭ける作家もいるでしょう。
まぁ、やりすぎて現行の有害図書指定喰らったら仕方ないとしか言いようがないのですが。

話を読者層の観点に戻します。

チャンピオンREDの事実上の読者層はくどいようですがコアなオタクです。
チャンピオンREDの漫画しか読まないのは稀で、他の漫画も読んでる人が圧倒的多数でしょう。

要するに「需要のある層しか読まない」
この経済効果的も規制かけてうれしいかどうか微妙な層に圧力をかける条例が、
規制をかけられたとしてもニッチなことこの上ない、
漫画についてそもそも詳しくないと読めないところをちくちくといじめてもしょうがないんそれが今回の結論ですね。

ぶっちゃけると、性に興味を覚えた中学生に需要があるのは、そんなマニアックなものでなく「現行の条例で買えない成人漫画」とかもっと直接的なものだと思うんですよ。
それができんから少年漫画でちょっぴりエッチな作品を見て満足する。

あれ、これでなんか丸く収まる気がしました。

そもそも「ふたりエッチ」なんつー超有名作品の存在は結構大きい気がします。