聖書から学ぶ、今回の問題

私はクリスチャンです。
オタクでクリスチャンなのではありません。
クリスチャンであり、オタクなのです。
この立場、クリスチャンであることが何よりも上位に来ます。
大学生であることよりも、日本人であることよりも、生物として男であることよりも、
私がクリスチャンであることは上位です。
キリスト者であることは私の中核であり、
私の資質と希望として大学で情報工学を学び、
サブカルチャーに慣れ親しんだオタクであります。
ですので、考え方のベースは常に聖書の立場に立っています。

今回のことを思い巡らせていくうちに、
聖書の中の毒麦のたとえ話に似てるかなと思いました。(マタイの福音書13章)
一応聖書を読んだことのない人にかいつまんで解説すると(コレを気に聖書に触れてくれるとうれしいです)

ある農場主の畑に麦が撒いていたけど、農場主の敵が来て毒麦を撒いていった
芽が少し育って毒麦があることに気がついたけどどうするべきか、毒麦を抜いてしまおうかと聞くと、「麦も抜いてしまうかもしれないから待つ収穫のとき(収穫期には麦と毒麦の区別がつきやすい)に先に毒麦を収穫してしまい束にして燃やす」からそのまま育てろ
っていうたとえ話です。
講釈については、主イエス自身がその後同章37節から解き明かしてるので、ここでは省略します。

それで、似てると言ったのはアニメ漫画の名作か否かの二元論について。
玉石混交のところで悪いものの芽だけ抜こうとすると、
いいものも抜いてしまうリスクがあることをわすれてはいけません。

傑作の判断は評価をゆだねられている層がするべきであり、
役所の仕事ではありません。
最初からあきらかに「毒麦」とあからさまに分かるなら刈り取って燃やせばいいかもしれないですが、「まだ分からないものを毒麦かもしれないから刈り取る」っていうのは前述のようなリスクが発生します。

漫画とかラノベとかゲームの評価で東浩紀が面白いと言ったから
面白いに違いないっていう消費者はまずいません。
「このライトノベルがすごい」で1位になったからといって、
本当に面白いかどうかは読者の感性にゆだねられます。

書き手側としての声もバクマンで漫画家は、
「何が面白いか何が面白くないか漫画家は常に模索しながら描いてる」
「天才は自分の感性のまま描けば当たるけど、天才ではなければ「努力・うぬぼれ・運」の全てを駆使しないと」
と漫画家自身の声で言っています。


デスノートは今でも語り草かもしれないけど、
ヒカルの碁はもはや碁やゲーム業界を語るときにしか思い起こされない作品となりつつあります。
ですが、ヒカルの碁が駄作だったと評価する人は稀で、囲碁の文化にとって貴重な作品となっています。

この大消費時代
結局何十年も名作と判断され続けるのって「売れた作品」です。

そして、後世へ影響を残した作品です。
ジャンプから主人公が人を殺す作品がなくなったと嘆く漫画ファンは非常に多いです。
というか、「ジャンプは不殺だからつまらない」と断言する意見は割と見たことはあります。
あれは私の知る限り「るろうに剣心」ですかね。
アレ以降、主人公が他の登場人物を殺す作品をデスノート以外で見た記憶がありません。
ハンター×ハンターでゴンさんがネフィルピトー殺したぐらいですか。

デスノートは社会浄化のための殺人を取り扱った作品ですが、
デスノートの力によって、確かに社会は浄化されていき、人々は規律を持って行動はしていく。
しかし、当人の夜神月自身の人格はどんどん傲慢で極端な自己愛に歪んでいき、
最終的に失敗に陥るときにある意味中立の地点で事件を眺めていた死神のリュークに愛想を尽かされて殺されてしまうという筋。
やっぱり、「全体の思想をどうこうしよう」という規律浄化思想は結局のところ「人間にとって分不相応」という主張をする作品ですね。

デスノート見て誰が人を殺したんだろう。
いや、「ごっこ遊び」ならやりましたよ。
中学生のころハンターハンターのGI編ラストぐらいで、ボマーごっこは友達とやりましたよ。

でも、普通は「ごっこ」で終わるもんですよこれは。
実際にそれやってた同級生は今、警察官ですが。

あくまでもごっこで本当には人殺すわけがない。
だって、子供でも「人を殺すことはだめなこと」は分かっています。

そういえば「なぜ不殺を貫くのか」をテーマにしてる作品は最近は珍しい。
というか、るろ剣でかなりやってしまったので、扱いづらい題材ではある。

禁忌を誇張し、作品全体の流れでそれを悪とする作品こそある意味最も倫理的な作品なのかもしれません。
鋼の錬金術師で、人間による人間の作成については明確に否としたように。