表現規制コントラスト

今回の表現規制問題に孕むいくつかの問題をピックアップしてみる。

優先度最高位
思想的な二律背反、「根底の思想的」な部分。
1.表現の自由
2.子供を守ること

優先度中位
手続き上、法解釈問題で「現実として対処すべき」問題
3.採決に至った過程
4.法の条文の問題性
5.現場とのコンセンサス

優先度低位
正直、揚げ足取りの領域
6.関係者の言動


超おおざっぱに分けるとこのように3つに分けることができるのではないか?
高位の問題は「大義名分」としてしか機能しない。
言い換えれば思考停止へと導く道具にはなりますが、
ここばかり注目していても平行線で議論に決着が着きまない。
繰り返すけど注目することそのものは大事。
表現の自由とはなんぞやと追求するのも大事だし、それが弾圧されていた歴史や弾圧されているほかの国家のことを考え、
また台湾の歴史などを教訓を生かすことの必要性を考える必要がある。
子供を守ると一概に言うが「毒をなくしてしまう」ことが本当に子供の教育になるのか、
「毒の存在」を教えながら「取らない」ことを選べる判断力を与えることが教育ではないのか?
教育する手段を一つ自ら放棄してるのではないか

批評をしようとすればいくらでも出来るけど今回のメインは中位の部分なのでここらへんで。

現実問題の部分はどうあるべきか。
3についてなんだけど、
11月末に提出12月可決は無茶すぎる。
民主党が反対していた内容を行政がこの条例の必要性について説いて回った結果政局への心配で民主党が意見を変えた。
行政監査請求する必要性もあるかってか、誰か動いてるのかな。

法の条文の問題性についての答弁は「かわす」発言しかしてないね、都もとい担当の倉田氏
ストーリーというか作品の「設定」にまで法令が注文つけてくるってちゃんちゃらおかしいだろ。
ニーズのある層にニーズのあるもんしか普通作家は書かないよ。
んで、近親愛とか同性愛とか「作品的に避けて通れないテーマ」の時か「お約束的なギャグ」という「手法」以外では原則描かないのが当たり前。
それを「法」という手法で禁止というのだから、「書けなく」なってしまうものだ。

今まで「お約束」や「ジャンル」、そして「主題」として認められていたある種の限定的空間が「違法」あるいは「違法可能性」という名で書けなくなってしまう。
編集作業とは「一つの下らないギャグ」を採用していいか否かまで細かくチェックするものだ。
採用していけないものの「定義」が曖昧ならば、編集者の仕事は「曖昧な定義を無視するか、曖昧な定義の最大範囲を適応する」の二択しかない。
そして、商売を行う者としては「違法」認定を受けるリスクは原則として避けるべきと考えるとおのずから条文の不十分さ曖昧さ指摘することができる。


5について、ゾーニングするだけという批判は、
一般書店に18禁コーナーの設置の義務化を先にしてくれという反論を述べさせてもらう。
いっそのこと「一定規模以上の書店には18禁コーナーを設置する」条例でも作ればよいのではないか?
これならアウトサイダーな企業の漫画でも十分入荷してもらえるし、
一般的な18禁の写真集もゾーニングして堂々と売れる。
官能小説も分けることができる

ただ、これは現実問題「より大きな」反発があるだろ。
規制をする人間が漫画と小説は表現手段が違うだけで芸術的な価値は等価ということを意識する必要がある。
生徒会の一存の中には「メディアの違いを理解せよ」というセリフが存在する。
小説と漫画は本質的にメディアが違うだけにすぎない。

私は絵が描けないが物語を生み出したいという欲求の元で大学で文芸系のサークルに飛び込んだ。
それゆえに、絵が描ける人には多大なリスペクトがある。
漫画で表現できるなら漫画でもかまわないし、ビジュアルノベルでもかまわない。
最近は、youtubeニコニコ動画の隆盛のもとでビジュアルノベルのような「紙芝居」も流行っているが、本質的には
「メディア」の違いに過ぎず価値としては等価だ。
(前提となる設定を一から生み出す創作とかなりの部分出来合いの部分を使いまわす二次創作は別のものだが)

ところが規制を積極的に行おうとする存在は漫画ひいては漫画家に対するリスペクトがない。
むしろ社会のゴミとすら思っている。

彼らを潰すなら彼らを潰した結果「彼らという名」の「失業者」を対策までする必要がある。
それができないならもっと穏当に方法を考えろ。

6について。
これは私は不要とは考えていない。
都知事や副知事が失言をするたびに理論武装するためのカードが一つ増え、
そのカードを入り口に他の人にこの問題について考えさせる手段を生むからだ
問題を考えるのは間口は広くていい
低次元のものから高次元のものへ議論を展開していくのは何も不自然なことではない。
ただ「そこにのみ固執」することの無意味さは警鐘をならしておく。
あくまでも入り口は入り口に過ぎず、
高次の問題や「現実問題」へと目を向けさせる手段であり、
彼らをなじることを目的とするのは本末転倒だ。