性と規制とキリスト教とキリスト教的倫理

非常に無意味なことだけど、
あえて、キリスト教キリスト教的倫理を区別したいと思う。

クリスチャンなら誰もが知っている主から受けた命令は以下の二つ

心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛せよ

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ

これが、大原則です。
隣人の定義は良きサマリヤ人のたとえ話につながる

ここで普遍的全人類愛という領域に達するんだけど、
痛烈な主のたとえ話には皮肉が必ず潜んでいる。
最初の「律法学者」「祭司」今、クリスチャン自身に当てはめるなら「牧師」や「宣教師」だ。
もしかしたら一般の「クリスチャン」と言ってるのかもしれませんというか、
「聖書に書かれている以上その解釈もとるべき」だ。
で、あえて今回の件に関して例えるならサマリヤ人は「エロ漫画家」としようか。

いや、これも極端すぎる解釈だけど、
サマリヤ人と当時のユダヤ人とのギャップがどれほどあったかを例える一例ね。
多分、こんな病気みたいなたとえすんのは俺だけだろうけど。



まぁ、いいや。
これらのことを守っていくと、
必ず聖書にある戒めにはクリスチャンは忠実になっていく
特に十戒にあることを忠実に守ろうとする。

十戒の中の一つ「姦淫してはならない」

これの解釈問題になってくる。

基本的に福音主義諸派では、

浮気は厳禁というか論外

婚前交渉の禁止

原則としての離婚の禁止

解釈に幅があったとしても大体この点では共通の見解を示している。

俺は世界のあり方はこうあるべきだと思うよ。
男と女として創造され、父と母を離れ二人は一体となる。
これに基づいた生き方がやっぱり一番望ましい。


でさ、
これを政治で主張して政教分離と言える?

現実の法には宗教由来の精神に基づいた法はたくさん存在するんだけど、
この考え方、
あまりにも宗教倫理的な問題過ぎて政治と噛み合わないんだよね。

だから、形式化して倫理問題レベルで政治に反映させるように程度を下げる
政教分離と主張できるレベルまで議論の質を下げて倫理のルール化を測る。

ここで起きる政治と絡み合うダイナミズムの関係で、気がつくと
規制すべき対象か否かの二元論的問題になってしまう。
で、規制すべき対象を生み出す存在は明確に敵になってしまう。

ここで、クリスチャンは本質的に隣人愛を忘れて敵を憎む姿勢をとってしまう。
この構図なんだと思う。

憎むべきはポルノであり、それを生み出す必然性のある社会であるのに、ポルノを生む存在を憎み始めてしまう。

今回の件から感じる右派の性質ってこんな要素が強いのかもしれません。