自由について考える

表現の自由とはなにか?

日本国憲法の定義によると
「公共の福祉に反しない限り」守られるものなんだよね


公共の福祉の定義を考える必要があるんだけど

どんな発言でも認められるべきなのか、
どんな表現でも認められるべきなのか

究極的に言えば「Yes」だと思う
馬鹿とか死ねとか「言葉自体の存在」はたとえ差別擁護でも「存在」を許すべきだと思う。

新改約聖書の第三版が出るとき議論になったのは「らい病」の表現について
らい病という表現はハンセン病の差別表現です。
ですが、聖書中は家のカビなどにも言語(ヘブル語)ではツァラアトになっていて、
第二版のときには統一して「らい病」だった。

これを三版にするときに、差別表現は残しておくべきか否かという議論があり、
結局差別表現を全部「ツァラアト」にしたけど、
ハンセン病患者のクリスチャンから「らい」の表現を残してくれという依頼があったのを俺は知っている。
し、この共通認識はクリスチャンの中で持っておくべきだと思う。

いかに「ハンセン病」に「差別意識」を『自分を含んだ』多くの『一般』が持っていたかを。

言葉が死んだとき「差別」の存在が現実のものから「過去のもの」へと変わる。
問題の「当時者性」が欠落する。

問題が完全に癒えた結果自然に失われたのなら良いことだろうが、
言葉を殺した結果、認識できなくなるのはやはり問題だと思う。

ただ、問題が癒えるのは当事者性のある世代を何代も経たその差別意識から互いに完全に自由な世代でしか本質的にはありえないと思う。

完全に自由というのは「被害者側」の傷が癒えるという意味であって、
「加害者側が忘れ去る」という意味ではない。

KGKに関わっていくなかで「戦後のクリスチャンのアジアへの責任」がなかなか共感することができなかったが、年を取っていってだんだんとその責任の大きさについて理解できるようになった。
自分の上から目線の正しさじゃ相手の感情は変わらない
へりくだって許しを請うから、悔い改めるから相手は変わる、あるいは対話ができるようになる。

差別の問題は「あった」という「知識」の問題ではなく、
「ある」という「現実」の認識に立つ必要が常に問われる。
あらためてそう思わされた。