やはり専門性の違いだなぁ。

http://ameblo.jp/rin20101215/

twitterで見かけた法学部の人のブログ

法律を勉強する側の立場から丁寧に説明してくれてる。
特に、僕は山口弁護士のとこから条文拾って読んでた人間なので、
8条解説とか凄く助かる、見やすいし。

しかし、日本の司法を見ると三権分立と言いつつも、
司法だけは弱いなぁとつくづく思う。

石原、猪瀬ヘイトの訳

石原、猪瀬ヘイトが高まってきてるのも大分アレだなぁ。

なぜ、石原猪瀬がここまで叩かれるかをまとめてみよう。

1:二人ともバックボーンは小説家
2:特に石原慎太郎芥川賞受賞作「太陽の季節」などにおける現代のポルノグラフティ小説と大差ない過激なエロティシズムを書いた作家だった
3:猪瀬直樹は行政の人間にも関わらず手塚治虫火の鳥が規制されない理由を「名作だから」と評した
4:石原慎太郎は現在の社会を見て「野放図」と評し、「小説は描写の写しさがあるが漫画にはそれがない」と吐き捨てる。


こいつら、作家なのに権威的な賞を取った基本的に強者であるが故に、
木を見て森を見ることができない人なのだと思われる。

流通規制がどれだけアウトサイダー出版にダメージが入るかを理解できない。


この二人が規制の必要性をひたすら説いていくときに規制される側から受ける印象は、

「漫画という文化を軽視、あるいは蔑視し、『何か勝手に甘えた根性の奴らが「表現の自由」を吐き違えてると主張する』。表現の自由論とかを深く考えたこともないだろう」
としか受け取れないからこの上ない屈辱を感じるんだよね。

特に石原慎太郎は余計な一言を付け加えて各種人権団体からも大きくバッシングを受けてる。

結局のところこいつらは
「近頃の若い奴」とよく言う老害となんら変わらない
そんな印象しか受けない

で、規制する上で実際に動く旗頭が彼らなのでよりヘイトが溜まるわけだ。

追記
肝心な論点書き忘れてた
5:これら小説家が行政のトップにいる状態で「小説」は規制対象から外された

子供は小説読まないみたいなことも言ってたしな、石原

この5があるからこそ、漫画アニメを中心としたサブカル蔑視にしか見えないという構図。
市民の見本に立つなら自分の本から規制すべきなんじゃないのか、石原慎太郎

いや、産経新聞多分それ無理無茶無謀無理筋

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/110106/trd1101061948018-n1.htm

「性描写規制」って書き方のバイアスのかかり方が極端なのが、石原慎太郎コラムをニコニコしながら載せるな産経らしいけど
WEBアンケートは完全に無理筋だと思うぞ。

反対派を行動させるエネルギーは確実にWEBに有り、
「漫画規制」の歴史を「手軽かつ積極的に家でも」学べるのが現代。

私自身、ほとんど文献を洗ってないよ。
Twitter上でタイムラインに流れてくる情報を見ながら、

資料を読み、自分なりに吟味し意見や考え方を洗練させていく作業の繰り返しだけど、
Vipperみたいな「アンテナが広い誰かが動けば」脊髄反射で行動をする人種にとって、
アンケート系って確実に飛び込むもんだしなぁ。

歴史的にコイル騒動とかイナズマイレブンの人気投票とかでも前例があるわけだし。

自由記述欄が200文字なのは正直不満だったけど、意見を述べる練習かと考えながら以下の内容投稿、

規制について審査会の議事録によると「規制をかけるにあたって科学的な根拠は不要」と明言したことが「規制ありき」の条例改正であって、規制をかける側が「見たくないものを生殺しにしながら消していく」ための婉曲な表現弾圧です。
条例を運用していく審査会に警察官僚の出向職員が居ても本来「青少年を育て救う」厚生労働省文部科学省職員が居ないことからも自明です。

まぁ、産経の結果を待とうか。

うーん、頭痛いなぁと条例的な意味で。

http://yaplog.jp/teng/archive/1816

ゾーニング問題と青少年健全育成の問題は完全に切り分けるべきで、
ゾーニングについての管轄は「青少年条例」以外の管轄にすべきか。

戦略的負け筋なんだな、「青少年」を切り口にすると。

これは納得。

正直、規制派にとって「子供」は建前で(ただし自分では建前と本音の区別がつかなくなってる)本音は「私が見たくないもの消え去れ」なので。

そして、教育論の領域だと管轄は警察じゃなくて文部科学省だろ
規制について話合おうとするなら、バックの役人を警察から文部科学省経済産業省の役人にしろ。

ゾーニングの立場だけで純粋に話すなら警察は居てもいいだろう。
一種の治安問題だから。

ただ、「青少年」の「育成」だと本質的に警察ではなく文部科学省か、
はたまた「厚生労働省」管轄なんじゃないのか。

少なくとも、警察庁が提案するのはいいけど「なぜ主導」なんだろう?
行政の面子と批判うけてもおかしくないかな?

ゾーニング論についてはいくらでも警察と話し合っていいよ。
だが少年犯罪はともかく、「子供」についての知見について、警察庁は素人だろ?
子供とか社会的弱者の救済だったらそっちとも密接に連携とれよ。

と条例反対の訳

くどいようだが、東京都健全育成条例の内容に大きく反対だ。

理念は正しくとも手段が間違っていることを果たして国は肯定できるのか?
日本人は義賊の話とか、復讐の話とか好きだが私は基本的に好きではない。
誤りを別の誤りでもって正すことを是とは決してできない。

今回の件は「明らかに不正」だ。

何よりも条文の曖昧さを批判されながらも十二分に吟味することなく、(どこまで吟味しても表現の規制と関わってくる以上批判は止まないだろう)
ゴリ押しで可決させてしまったことは不正と言わざるを得ない。

理念がどんなに正しくても「手段」と、「反動」に目を向けないのは正義ではない。
正しいならば徹底して吟味すべきだ、反発の声を殺せるぐらいに吟味すべきだ。

その声に耳を傾ける態度が皆無である以上、徹底して反発し糾弾する態度以外私はとれない。

自由について考える

表現の自由とはなにか?

日本国憲法の定義によると
「公共の福祉に反しない限り」守られるものなんだよね


公共の福祉の定義を考える必要があるんだけど

どんな発言でも認められるべきなのか、
どんな表現でも認められるべきなのか

究極的に言えば「Yes」だと思う
馬鹿とか死ねとか「言葉自体の存在」はたとえ差別擁護でも「存在」を許すべきだと思う。

新改約聖書の第三版が出るとき議論になったのは「らい病」の表現について
らい病という表現はハンセン病の差別表現です。
ですが、聖書中は家のカビなどにも言語(ヘブル語)ではツァラアトになっていて、
第二版のときには統一して「らい病」だった。

これを三版にするときに、差別表現は残しておくべきか否かという議論があり、
結局差別表現を全部「ツァラアト」にしたけど、
ハンセン病患者のクリスチャンから「らい」の表現を残してくれという依頼があったのを俺は知っている。
し、この共通認識はクリスチャンの中で持っておくべきだと思う。

いかに「ハンセン病」に「差別意識」を『自分を含んだ』多くの『一般』が持っていたかを。

言葉が死んだとき「差別」の存在が現実のものから「過去のもの」へと変わる。
問題の「当時者性」が欠落する。

問題が完全に癒えた結果自然に失われたのなら良いことだろうが、
言葉を殺した結果、認識できなくなるのはやはり問題だと思う。

ただ、問題が癒えるのは当事者性のある世代を何代も経たその差別意識から互いに完全に自由な世代でしか本質的にはありえないと思う。

完全に自由というのは「被害者側」の傷が癒えるという意味であって、
「加害者側が忘れ去る」という意味ではない。

KGKに関わっていくなかで「戦後のクリスチャンのアジアへの責任」がなかなか共感することができなかったが、年を取っていってだんだんとその責任の大きさについて理解できるようになった。
自分の上から目線の正しさじゃ相手の感情は変わらない
へりくだって許しを請うから、悔い改めるから相手は変わる、あるいは対話ができるようになる。

差別の問題は「あった」という「知識」の問題ではなく、
「ある」という「現実」の認識に立つ必要が常に問われる。
あらためてそう思わされた。

性と規制とキリスト教とキリスト教的倫理

非常に無意味なことだけど、
あえて、キリスト教キリスト教的倫理を区別したいと思う。

クリスチャンなら誰もが知っている主から受けた命令は以下の二つ

心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛せよ

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ

これが、大原則です。
隣人の定義は良きサマリヤ人のたとえ話につながる

ここで普遍的全人類愛という領域に達するんだけど、
痛烈な主のたとえ話には皮肉が必ず潜んでいる。
最初の「律法学者」「祭司」今、クリスチャン自身に当てはめるなら「牧師」や「宣教師」だ。
もしかしたら一般の「クリスチャン」と言ってるのかもしれませんというか、
「聖書に書かれている以上その解釈もとるべき」だ。
で、あえて今回の件に関して例えるならサマリヤ人は「エロ漫画家」としようか。

いや、これも極端すぎる解釈だけど、
サマリヤ人と当時のユダヤ人とのギャップがどれほどあったかを例える一例ね。
多分、こんな病気みたいなたとえすんのは俺だけだろうけど。



まぁ、いいや。
これらのことを守っていくと、
必ず聖書にある戒めにはクリスチャンは忠実になっていく
特に十戒にあることを忠実に守ろうとする。

十戒の中の一つ「姦淫してはならない」

これの解釈問題になってくる。

基本的に福音主義諸派では、

浮気は厳禁というか論外

婚前交渉の禁止

原則としての離婚の禁止

解釈に幅があったとしても大体この点では共通の見解を示している。

俺は世界のあり方はこうあるべきだと思うよ。
男と女として創造され、父と母を離れ二人は一体となる。
これに基づいた生き方がやっぱり一番望ましい。


でさ、
これを政治で主張して政教分離と言える?

現実の法には宗教由来の精神に基づいた法はたくさん存在するんだけど、
この考え方、
あまりにも宗教倫理的な問題過ぎて政治と噛み合わないんだよね。

だから、形式化して倫理問題レベルで政治に反映させるように程度を下げる
政教分離と主張できるレベルまで議論の質を下げて倫理のルール化を測る。

ここで起きる政治と絡み合うダイナミズムの関係で、気がつくと
規制すべき対象か否かの二元論的問題になってしまう。
で、規制すべき対象を生み出す存在は明確に敵になってしまう。

ここで、クリスチャンは本質的に隣人愛を忘れて敵を憎む姿勢をとってしまう。
この構図なんだと思う。

憎むべきはポルノであり、それを生み出す必然性のある社会であるのに、ポルノを生む存在を憎み始めてしまう。

今回の件から感じる右派の性質ってこんな要素が強いのかもしれません。